京都大学農学研究科比較農史学分野 | 2005年7月1日 |
★C o n t e n t s★
野田公夫 |
足立さんから、「ニューズレターを出してみたい」との話がありました。「省力化」こそが、この業界で生き抜いていくためのキーワードになりつつある国立大学法人(旧国立大学)において、このような「反時代的な」提案をストレートに受けて、私はおおいに戸惑いそして感激し、また考えるところがありました。以下「考える(期待する)ところ」を記して、発刊の言葉に代えさせていただきます。 (研究室の外のみなさんへ) 第一は、研究室メンバーの多彩な研究内容を研究室の外のみなさん方にお知らせしたい、そしてどうか、様々なアドバイスをいただきたいということです。「日本」の「近代」の「農業」の「生産過程」及び「経営と所有」の「経営史・経済史的研究」にほぼ収斂していた「かつて」とはすっかり様変わりし、院生たちの関心は、本当に「(私にとっては)無謀なまでに」広くなりました。イギリスもあればジャマイカも満州もある、思想もあれば運動も文化もある、社会もあれば家族や個人もある、18世紀もあれば戦後現段階もある等々…かかる多様性は私たちの指導力量をはるかに超えるものです。 もちろん、これらの研究は各々の研究領域にふさわしい学会で発表し評価を受けることが基本であり、そのような指導を厳しくしていきたいと思いますが、それだけではなく、広汎な研究領域をカバーしておられるみなさん方から、大小様々で多分にインフォーマルなアドバイスをいただくことができましたら、こんなに嬉しく有難いことはありません。ニューズレターが、若い人たちにより刺激に満ちた知的環境を提供することになってくれればと、期待しています。 (研究室の中のみなさんへ) 第二は、全く「うちわ」の問題です。私の目からみて(「どんなに贔屓目にみても」という意味です)、この研究室のみなさんたちは自己主張が乏しすぎ、自己表現が未熟すぎます。研究というものが「単なる趣味」でないのは、第三者にその意味を確実に伝えられるという条件に支えられてのことでしょうが、みなさん方はこれらの「義務」に対しほとんど無自覚なようにみえます。できれば「ニュ−ズレターに書く」ということを、かかる「義務」について「自問自答するチャンス」として利用していただきたい、すなわち、自分の研究課題・研究内容やその面白さおよび研究上の悩みなどについて、第三者がスムーズに(そして興味をもって)理解できるように綴っていただきたいと思います。「味のないレジュメ」でも「他の入り込めない私小説」でもなく、「自分はなぜこの課題を追いかけているのか、今までに何がわかったが、何が超えられていないのか」等が適切に伝えられるメッセージを、苦労してまとめてみてください。 これではプレッシャーをかけすぎですね。しかしこれは、あくまで「遠い目標」を述べたまでですから、どうか気後れすることなく「安心して」投稿してください。 (研究室OB・OGのみなさんへ) 第三は、OB・OGのみなさん方も含む情報交換・相互交流の場をつくりたいということです(ここでOB・OGと呼んでいるのは、研究室名が「比較農史学」に変わって以降の若い修了生のことで、それ以前の「年配修了生の方々」は「研究室の外のみなさん」に含めています)。みなさん方はこれまでも、メールで近況報告を届けてくれたり、年休をとって研究室に顔を出してくれたり、また求人活動に来てくれたこともありましたが、もっと安定した交流の場を提供したいと思います。 かつてとは違い修士課程を出て企業等に就職する人が大幅に増え、社会の側からも大学院の機能を広く開放することが求められている今日、各々の「場」を大切にしながら、大学と社会相互の連繋をすすめることが必要になってきたことを、痛感しています。「企業に就職した1人が学会誌論文をモノにした」「博士課程へ社会人を受け入れた」という本年度に当研究室が経験した二つのトピックスは、その先端的現象であると私は受けとめました。今のところみなさん方は「情報(ニューズレター)の受け手」としてのみ位置づけられていますが、ぜひとも「情報の発信者」としても登場していただきたいと思います。第一・第二の趣旨と矛盾しないような参加形態とはどのようなものか…これは次号までに足立さんに知恵をしぼっていただきましょう。 以上の期待をこめて、発刊の言葉にいたします。みなさん、よろしくお願いいたします。 |
北海道農法の導入と「満州」農業開拓民 −第6次「五福堂」開拓団・第7次北学田開拓団を事例として− 今 井 良 一 |
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果たして北海道農法は、戦時増産体制下の「満州」(以下括弧略)開拓団、そして農業開拓民に普及したのか? 結論から言えば、それは NO! だが、これまでその実態はほとんど明らかにされてこなかった。このたび筆者はその実態を明らかにしたので、以下、その内容を簡単ではあるが述べることとする。
関連する研究史として対立する2つの見解が存在する。小林英夫氏と浅田喬二氏(満州移民史研究会)は、満州での北海道農法の普及および拡大は不可能とし、その理由に北海道農具の供給不足、開拓農業実験場の不足などをあげている。一方、玉真之介氏は逆に普及したとする。玉氏の説は、物資・指導員供給体制、そして開拓民農業経営に対する評価が過大だと思われるが、いずれの説にも共通する問題はそれらの実態分析が不十分なことである。また戦時末期には深刻化する食糧難によって、短期的な視野に制約された増産要請が台頭し、それは一方で北海道農法のもつ中・長期的な増産効果を一部否定する動きでもあったが、玉氏の説にはこうした視点も欠け、この要請が開拓民農業経営や生活にどのような影響を与えたかということもあわせて見る必要がある。さらに北海道農法導入の鍵を握るとされた指導員や農具などの供給に関しては、それらの多くが内地依存だったにもかかわらず、これまで日本との関係を視野に入れて分析が行われていない。早急に導入(動員)しようとすれば、強力な指導・援助体制が伴わなければ不可能だが、指導員や農具に加え家畜などの供給不足その他から、実際には開拓地で様々な混乱が生み出された。
以上の視点からの分析により、満州での北海道農法導入の程度が類推でき、終末期の増産体制の中に満州農業開拓民を位置付けることができよう。
そもそも北海道農法とは、@プラウ・ハロー・カルチベーターなどの畜力用農具による耕作(この部分を本稿では便宜的に北海道耕作法と呼ぶ)、A穀物作に長期輪作や緑作休閑を取り入れた、B有畜農業(酪農)、そしてC自給自足による生活の安定化と乳製品その他による栄養改善というもので、それまでの満州在来農法に依拠した不安定な農業経営、また不安定な生活を合理化して、1戸当平均割当耕地10〜12町歩をもとに安定的で自立的な自家労作経営および生活の確立を要請するものだった。
そこで筆者は、北海道農法が導入されたとされる第6次「五福堂」(新潟県出身者で構成、以下括弧略)開拓団、第7次北学田開拓団(福島県出身者で構成、満州で最初に北海道農法が導入されたとされる開拓団)を事例に、満州農業開拓民の農業経営および生活の実態分析を行った(ともに団員・妻・子供数人の核家族入植)。その結果、いずれの開拓団においても北海道耕作法が導入されただけで、安定的で自立的な自家労作経営および生活の確立が行われることはなく、それどころか開拓農家は非常に短期的で永続的視点を欠いた経営および生活を行っていたのである。以下、具体的に説明を行う。
北学田開拓団では、1940年度(組単位共同経営期)から北海道耕作法が導入された。この導入を可能にしたのは、満州拓植公社からの役畜や農具資金が調達できたこと、同公社によるトラクター開墾、農具や役畜の操作に関する指導などが行われたことや団長の北海道視察、団員自身が導入に熱心だったことなどがあげられる。北海道耕作法の導入により、この年の営農は雇用労働力が導入されたのは収穫期のみという成果を収めた。しかし玉氏のようにこの年の成果だけをもってすべてを語るのは非常に危険である。なぜなら1941年度の組単位共同経営では全期を通じて雇用労働力が導入された。この理由として経営規模の拡大、麦・豆類への特化とともに煙草や蔬菜など労働集約的作物の増加、収穫用北海道農具の不備、そして一方で生活の個別化に伴う婦人労働力の減少などがあげられる。また1942年には個別経営へ移行するが、平均的開拓農家(家族労働力2人)では6町歩耕作が限界で10町歩耕作は不可能だった。ただ自家労力による可耕面積は増加したと考えられる。農家が経営規模を拡大しようとする限り雇用労働力の導入が必要で、麦・豆類への特化や労働集約的作物の増加、家畜の増加、収穫用北海道農具の不備、その他に開拓民がまだ北海道耕作法に精通していなかったことなどが加われば、その導入はなおさら必要だった。しかし雇用労働力の導入は現金獲得の必要性を促した。その他の経営費(肥料、家畜など)や生活費(食糧や衛生費)獲得のためにも現金が必要で、そのためさらなる商品作物への特化的栽培という悪循環をもたらした。そして短期的な視野に制約された増産要請がそれに拍車をかけた。こうした土地利用は農業経営の不安定化を招き、またプラウによる深耕だけでは一時的な収量増加が見込めたかもしれないが長続きするものではなかった。応召も深刻だったと考えられ、その結果は粗放化、収量の減少、そして荒廃化であり、経営規模の拡大のみによる増産では破綻・縮小は明らかで、その結果、さらなる地主化が進んだ可能性がある。
一方、五福堂開拓団では1942年以降に北海道耕作法が本格的に導入されたと考えられるが、これを可能したのは、通北県による酪農化推進運動や開拓研究所による奨励、団長や指導員のリーダーシップ、三河ロシア人主畜農業地帯視察、満州農業に対する団員の自信などがあげられる。この開拓団では1戸当仮割当耕地が平均5町歩と小さく、多くの開拓農家が自家労作経営(家族労働力2人)を行っていた。しかし雇用労働力を導入していなくとも、麦・豆類、馬鈴薯(有利作物)、蔬菜などへの特化が行われ、農業経営の不安定化を招いたが、これは主に家畜・飼料費、生活費(食糧・衛生費など)獲得および供出のためだった。そしてこの開拓団では飼料の不足や畜舎の不備(援助体制の不備)、開拓民のもつ家畜飼養技術の低位性(指導体制の不備)などにより慢性的な役畜不足と能力の低下に悩まされ(用畜も同様)、これが経営規模の拡大や深耕を困難にし、また施肥もほとんど行えず土壌を改良できなかった。開拓団は開墾やトラクターによる深耕を計画するがそれらはともに不可能で、五福堂開拓団でも経営の合理化は行われなかったのである。そのような中で生産意欲が低下していたし、また応召が深刻化する中で、増産要請に応えられたとは考えられない。
また生活面においては北学田・五福堂ともに衣食住すべての面で物資が不足し、乳製品による生活改善もほとんどなく、また生活指導体制の不備などから多くの開拓民が病気にかかりまた乳児の死亡率は高く流産も多かった。またあまりの物資不足に切羽詰って現地中国人のものを奪う開拓民もいたのである。
したがって満州への北海道農法導入に当たり、先進的であったとされる北学田開拓団、五福堂開拓団ともに北海道耕作法が導入されたものの、経営および生活の合理化は行われず、安定的で自立的した自家労作経営および生活の確立は不可能だったと言える。「開拓農業の合理化は深耕にありとか、或は秋耕にありとか、或は早期播種にありとか、或はプラウの採用にありとか、或は乳牛の導入にありとかいふやうなことが農業技術者の立場から唱導されてゐるが(中略)農業経営の合理化問題はこれ等の断片的な技術的改善にのみによつて解決されるほど、さようになまやさしい問題ではないことを銘記せねばならぬ。それ等各種の技術的諸問題は(中略)綜合的に取扱はるべき性質のものである」(永友繁雄「満州の農業経営と開拓農業」満州移住協会1944 p.117)というのはまさにその通りだろう。その結果、開拓農家は非常に短期的で永続的視点を欠いた経営を行い、また行わざるを得なかった。これは開拓民農業経営の資源収奪的性格を意味し、増産要請に応えられたとは考えられない。
さらに満州全般的傾向として指導員や物資の供給体制の不備により供給は円滑に行われなかったと考える。特に指導員は1942年には北海道が送出を規制したからである。そのため満州では指導員が不足し、農具使用・管理、耕作法に関して様々な混乱が起きた。また役畜の操縦・飼養管理についても同様で、その結果多数の役畜が死亡し不足に拍車をかけた。さらに北海道農具は不足していただけではなく、輸入されたものの中には多数の不良品が混じり、修理にも時間がかかった。したがって北海道農法を普及させる以前に指導員、農具、役畜の不足によりそれは破綻していたといわざるを得ず、満州において北海道農法が普及したとは考えられない。
このように開拓民(家族を含めて)は経営指導や生活指導体制、そして物資供給体制の不備、または過酷な増産要請から非永続的な経営および生活など様々な困難を国家によって背負わされた「被害者」だった。しかし一方で満州農業開拓民それ自体が侵略行為だが、彼らの生活総体の中での様々な行為(国家によって背負わされたことや彼ら自身の驕り)が「侵略者」としての性格をより深刻なものとしたことは否定できない事実である。
★比較農史学分野には、現在、スタッフ3名(2005年4月より新たに伊藤淳史氏が助手として加わりました)の他、研修員1名、博士課程5名、修士課程4名、学部4回生8名(留年生含む)が所属しています。今回は第1弾としてこのうち6名について、その研究概要を簡単に紹介します。
今井良一(研修員):満州農業移民論−満州農業移民の経営と生活に関する研究− 研究の目的は、満州農業移民の現地における(農業)経営や生活の実態分析を通して、農業移民がどのような性格を持っていたのかを明らかにすることです。関連する研究史上の問題点として、(1)経営・生活視点からの分析が行われてこなかったこと、(2)大量移民政策期の移民団、特に分村・分郷移民としての実態分析が行われてこなかったこと、(3)満州への北海道農法の導入に対して実態分析が行われてこなかったこと、など大体3つがあります。上記の(1)(2)に関連するものに、「満州移民史研究会」の業績があります。しかしこれは土地問題への関心から農業移民の地主化という結末だけが結論づけられ、経営や生活面での問題については明らかになっていません。また大量移民期の移民団は試験移民の経験を踏まえて送出され、入植形態やその後の経過など多くの点で異なるのに、その違いはほとんど考慮されてきませんでした。分村・分郷移民は試験移民での何を解決できて、何を解決できなかったのかという視点(試験移民から大量移民へ)から実態を分析することが分村・分郷移民だけでなく試験移民の位置付けには必要だと考えます。(3)については「研究報告」で述べておりますので、そちらを参照してください。
以上のような視点をもとに、これまで「試験移民(における個別化・地主化)→分村移民(における試験移民より深刻な個別化・地主化)→北海道農法関連移民団(における北海道農法導入の失敗)」の分析を行い、そしてそれらの共通項として、農業移民が「非永続的な視野に基づく(農業)経営および生活」を行った、また行わざるを得なかったことを検出し、彼らの「支配者」としての性格とともに「被害者」としての性格を明らかにしてきました。現在、それらを体系的にまとめる作業に入りつつあります。
<研究論文>
【1】「「満州」農業移民の経営と生活−第一次移民団「弥栄村」を事例として−」『土地制度史学』173号(2001年)
【2】「「満州」試験移民の地主化とその論理−第3次試験移民団「瑞穂村」を事例として−」『村落社会研究』9巻2号(2003年)
<学会発表>
【1】「「満州」農業移民の実態−開拓民の経営と生活の視点から−」地域農林経済学会(第49回大会) 富山県立大学 1999年3月
【2】「「満州」農業移民の経営と生活−第3次試験移民団「瑞穂村」を事例に−」日本農業経済学会(2002年度大会) 茨城大学農学部 2002年3月
【3】「戦時下における「満州」分村開拓団の経営および生活実態−長野県泰阜分村第8次大八浪開拓団を事例として−」日本農業史学会(2004年度研究報告会) 日本大学生物資源科学部 2004年3月
圀府寺彩(OD2):18世紀末〜19世紀前半期のジャマイカ・プランテーション社会に関する研究 英領西インド諸島は、16世紀半ば以後、イギリスの砂糖供給用植民地として位置づけられ、アフリカから強制連行された奴隷を労働力として、サトウキビ栽培が展開された地域である。1833年にはイギリス議会が奴隷制廃止を決案し、その後解放された奴隷を労働者として雇用する形でサトウキビ栽培は継続される。このような奴隷制プランテーションの実態は、わが国ではほとんど知られていないのが現状である。
私の研究では特に19世紀前半という奴隷制末期に焦点をあて、砂糖プランテーションの実態・変化を追っている。その一例として、奴隷社会におけるヒエラルキーの発展、混血奴隷の急増、混血奴隷の自由人化という3つの現象をあげることができる。従来の認識では、この3つの現象が「人種主義」というキーワードによって説明されてきた。つまり混血奴隷はヒエラルキーの上位に位置づけられ、奴隷から自由人の身になりやすい環境が整っていた、と。しかし砂糖プランテーションの記録や当時の法律をもとにすれば、混血奴隷の急増期以前に黒人奴隷の間でヒエラルキーが発展していたこと、ヒエラルキーと人種が必ずしもリンクしているとはいえないこと、自由人化が遺棄の意味合いを多分に包摂していたことが判明したのである。したがってプランテーションにおいては人種主義以外に、混血奴隷がサトウキビ栽培の労働力として不適とみなされ、遺棄の対象になることもあったという側面を見落としてはならないのである。
今後の課題は、実態・変化をさらにえぐっていくことに加え、変化をもたらしたものは一体何であったか、またその変化が雇用労働者による栽培の時代へどうつながっていくのか、奴隷制が西インド社会にもたらした爪痕とは一体何であったのかを明らかにすることである。
<研究論文>
「奴隷制末期におけるジャマイカ社会の変化 −職能的人種的秩序の形成と「自由人化」−」『農業史研究』第39号(2005年)
<学会発表>
「ジャマイカの奴隷社会におけるヒエラルキーに関する考察」日本農業史学会(2002年度研究報告会) 茨城大学農学部2002年3月
酒井朋子(D3):近現代アイルランド社会における歴史の語りと表象 アイルランドは20世紀前半に国家としての独立を獲得したが、英国による植民地化と脱植民地化の歴史をいかに語るか・表現するかという問題は、その後も長く、歴史学界の内部のみならず広く社会的に重要な争点でありつづけてきた。とくに南部独立の後も英連合王国統治下に残され、近年まで熾烈な抗争が繰りひろげられてきた北部(北アイルランド)において、歴史を語り表象する行為は直接的な政治行動でもあった。それゆえ、これまでにもアイルランドの集合的記憶をめぐる研究は数多くなされ、とくにここ十年はどんどん増産されている。わたしの研究もその一つであるのだが、なお自分なりの関心を述べると次のようになる。
乱暴な言い方をすれば、多くの研究は歴史の記憶の問題をもっぱら「民族的/宗教的共同体の維持再生産」や「ナショナル・アイデンティティの確執」という把握へと収斂させてきた。また一部は、アイデンティティ研究と名を変えた伝統文化研究になっているとも言える。それにたいして、わたしが関心を持つのは、人びとが社会的・経済的な辛苦を訴えたり、あるいは公的権力や社会のミクロな権力にあらがっていくときに、いかにして日常生活における経験とのかかわりで歴史を想起するのかという問題である。たとえば、70年代の労働者が第一次大戦の従軍兵について語るさい、そこに彼ら自身の日常的な労働の辛苦や貧困を投影していったことをどうとらえるのか。また、近隣にある警察の監視塔について、その地下にはエリザベス朝の植民時代にケルト人部族が掘った地下道があるという「お話」が不穏に語られるとき、そこには何が込められているのか。そういった問題である。アイルランド人/英国人、プロテスタント/カトリックという対立構造のなかでは消え失せてしまいそうな、そして実際にその対立構造のなかで血みどろに展開されてきた衝突の歴史を鑑みれば取るにたりないような陰翳だが、しかしこの視点をつうじて、時々の歴史的想像力のなかに秘められていた可能性が垣間見えるのではないかと思われるのだ。
今後は北アイルランドで長期の聞き取り調査を実施していく予定であるが、現段階で強く意識する課題は、当地に暮らしてきた人びととどのように関係していくのか、言い換えればわたし自身がいかなる立ち位置で人びとの語りをうながし、聞き、それを誰に向けて書くのかということである(文書資料を用いた研究でも当然ぶつからねばならなかった課題と、今になって自戒する)。このためには、現在の国内的・国際的政治社会動向における学の課題について認識をあらたにすることはもちろんながら、わたし自身の属性や経験を――日本国籍をもってこの社会に生まれたという優位性や、また女を「行ないながら」社会と関係してきたことなどにかかわって、わたし自身にとっての表現や運動とはなんであるのか、を――再考し、ややアクロバティックに発想転換することが必要かと感じている。このことは、(巻頭言の言葉を借りれば)「研究というものが「単なる趣味」でない」ことをより説得的に訴えるために、いかに問題設定と叙述とを編成するかという課題にもつながるものと思う。
<研究論文>
【1】「〈虐げられた物語〉としての第1次世界大戦−1970年代のアルスター・ロイヤリストにおける−」『ソシオロジ』第153号(2005年)
【2】「北アイルランド・ユニオニズムにおける第1次大戦の記念と表象−名誉革命期ボイン戦との記憶の接合をめぐって−」『宗教と社会』第11号(2005年)
<学会発表>
「〈聖なる突撃〉をめぐって−北アイルランドにおける第1次大戦の記念と表象−」、「宗教と社会」学会第12回学術大会個別報告(2004年6月、大阪大学)
<研究会報告予定>
「ロジャー・ケースメントの「黒日記」捏造論争−1950〜60年代アイルランド社会における英雄像とセクシュアリティ観−」近代社会史研究会、2005年7月23日、京大会館
野間万里子(D2):日本における食生活の近代化過程に関する研究 研究テーマは日本における食生活の近代化です。食の変化を人々の食欲や食料生産の変化から把握することを目指しています。現在は明治初期の牛鍋ブームを、西洋料理や辻売の煮込との比較しながら近代的肉食受容の特質を考えています。牛鍋は文明開化の象徴とされていますが、その調理法は前近代の薬食から引き継がれたものです。従来の食生活史研究では、これを肉食の伝統に立った上での庶民の主体的な牛肉受容であると評価してきました。しかし同時期に辻売の煮込という一段低くみなされた牛肉消費の形があったことはあまり知られていません。西洋料理、牛鍋、辻売の煮込という形態で行われた牛肉食が人々にどうとらえられていたのかを、広く人々の目に触れこの時期の肉食をめぐる気分を反映し、また形成していくのに寄与したと思われる新聞、戯作などから明らかにしたいと考えています。さらに今後は、広範な役牛の存在が明治以降の牛肉食拡大の基盤になったと考えられますが、生産・流通の実態を明らかにすることで近代における肉食受容形態を総体的に把握することを目指していきます。
<学会発表>
「近代日本における肉食受容過程の分析―辻売、牛鍋と西洋料理―」日本農業史学会(2005年度研究報告会) 北海道大学農学部2005年7月(報告予定)
寺田 康久(D1 社会人):近代屋久島の漁業史・地域史に関する研究 今春の編入学試験を経て所属しました。1952年鹿児島県屋久島に生まれ育ち、現在、大阪府の公立中学校に勤務しながら月曜日のゼミのみを受講しています。「古老の島歴史観をUNESCOへ」を気概に、住民視覚をコンセプトにして、明治時代から現在までの屋久島漁業・漁村史編さん活動の中から新たな歴史認識の創設を目指しています。
総面積約500平方`のうち約77%を占める国有林地を背景とした生活は、「1903年国有林下戻請求訴訟」「1921年屋久島国有林経営大綱の発表」「1922年学術参考保護林の設定」に始まる開発と保護の鬩ぎ合いを経て「1992年世界自然遺産指定」を機に「環境の島」として注視されてきた歴史観を包摂している。公(国)と私(島)、山間部と沿岸部の対立と共感・共存の継起は、グローバル・コモンズとローカル・コモンズが織り成す時空の軌跡であり、「コモンズの悲劇」を容易に展開し得る場でもある。平成の市町村合併は上屋久町と屋久町を「屋久島町」へと誘い、住民投票の合併賛成比率は屋久町で78.52%、上屋久町では50.39%と対照的である。投票後の上屋久町議会合併議案否決(8対7)は反対派議員へのリコール運動となり、7月24日に投票が実施される。国有林下戻請求訴訟に継ぐ、大空間を占める国有林地が蓄積してきた潜在的住民歴史観の表明であり、「屋久島は一つなのか、二つなのか」、「地域共同体として一つが良いのか、二つが良いのか」の相関し合い解決が容易でない永続的な問いかけへの始まりでもある。合併是非の動向に拘らず、中央部が広大に開き僅かな縁しかないドーナツ盤上での生活空間からの新たな思考の創造が求められている。「島従兄」の再創世と島全体を内包できる人材育成、山間部への入口・関所を担っているとの住民意識は不可欠であり、「コモンズの悲劇」を回避するための必須条件であると言える。
<研究論文>
【1】「屋久島の中学・高校生の生活意識と「環境の島」への対応−アンケート調査(1996年1月)より−」『南日本文化』(鹿児島短期大学付属南日本文化研究所編)第30号(平成9年8月発行)
【2】「鹿児島県熊毛海区浮式網トビウオ農業関連史」『南日本文化』(鹿児島国際大学付属地域総合研究所編)第35号(平成15年3月)
絹川 智史(M2):「食糧安保論」に関する言説分析 1970年代以降「食料(の)安全保障」という言葉が歴史的にどのように形成され、その意味がどのように変遷してきたかについて関心を持っています。英語でfood security と言えば専ら開発学などに用いられる「どうやってすべての人に安定的に食料を供給するか」といった意味に聞こえますが、日本語に訳せば異なったニュアンスを帯びてしまいます。日本においてはある時期「食糧安保論」と総称されるものが存在しましたが、その意味内容や論理は話者によって、時代によって大きく異なっています。行政によって、都市住民によって、農民によって、政治家によって、農業経済学者によって用いられ方が大きく異なる中でどのように対話がなされていったのかに深い興味を持っています。加えて、時代による意味の変化を追うことは各時代に生きた人々の世界観や問題意識の変化が見てとれるのではないかと考えています。
京大農史ゼミの「比較農史学研究通信」の第1号をお届けします。
本研究通信は、いまのところ年3〜4回の発行を計画しています。第1号は、やや固い内容になりましたが、今後は、あくまでゼミ生のハードな研究報告を軸としつつ、同時にOBやOGの方々の体験的な寄稿、留学体験記、書評やアカデミックな研究雑感など、徐々にコンテンツを増やしていきたいと考えています。もちろん年配や中堅の研究者の方々の寄稿も大歓迎です。
「巻頭言」にもありますように、このニュースレター発刊の第一の動機は、ドクター層を中心とする若手ゼミ生の研究内容を広くみなさんにお伝えしたいということにあります。基礎的な領域に従事する若手研究者をめぐる状況の厳しさは相変わらずですが、そうした事態を少しでも前向きに打開したい、彼らを少しでも鼓舞したいと切実に思うのです。しかし、同時に、そうした若い人々の声を運ぶことで、「21世紀」の問題状況と深く切り結ぶような「新しい」農業史研究を生み出す一助になれないか、とも考えています。そんな夢の実現に、みなさんのご協力とご理解を心よりお願い申し上げます。 (足立)
〒606-8502
京都大学農学研究科生物資源経済学専攻
比較農史学分野http://www.agri-history.kais.kyoto-u.ac.jp/