京都大学農学研究科比較農史学分野 2009年10月5日発行 ★農史Topへ
比較農史学研究通信 第6号
★C o n t e n t s★ 巻頭言 ・・・野田 公夫 研究紹介
滋賀県における牛肥育の成立過程
―戦前期、役肉兼用時代の肥育論理―・・・野間 万里子 修士論文紹介
近世紀伊における地主の形成過程と経営動向
―伊都郡赤塚村田中家を事例として―・・・池本 裕行 調査報告
沖縄から旧南洋群島へ移民した人々への聞き取りを重ねて・・・森 亜紀子 研究近況 ・・・安岡 健一 編集後記 ・・・足立 芳宏
巻頭言 ・・・・・野田公夫 一 「当事者であることの困難」…今回はこんなことから書き出してみたい。
生物資源経済学専攻の新年の仕事はじめでは、専攻長が年頭所感の意をこめた簡単な挨拶をするのが慣例である。昨年度専攻長であった私は、2009年1月4日時点で自分の心を占めていた「最も大きな(研究者としての)思い」を紹介して、あいさつに代えた。当日の話し言葉に若干のテクニカル・タームを補えば、次のようなものであった。
“…世界は「100年に一度」の未曾有の経済危機に見舞われている、という。このような歴史的瞬間に遭遇したことは研究者としては幸せだと思い、持てる五感を最大限高め世間・世界を凝視してみたい。過去、危機は必ず一つの「知の飛躍」をもたらしてきた。もし可能であれば、同様の飛躍を「自身の知」においても果たしてみたい。かかる体験を通じて、新しい眼で「時代」を見つめ直してみたい…”
実は、「世界恐慌以来の…」というフレーズに接したとたん脳裏に浮かんだのは、大学院時代に読んだ猪俣津南雄の『窮乏の農村』であった。それまで「娘の身売り」に象徴されるような「東北農村の悲劇」によって農村恐慌を理解した気持ちになっていた私は、「大阪郊外の電車の沿線にある農村などしか見てゐないやうな人は、農家の疲弊なんか一体どこにあるかと思ふのも無理はない…」などという猪俣のレポートを読んで、驚愕したのであった。どちらも事実であるとすれば、世界恐慌(その一環をなす農村恐慌)像はかかる両側面を含みこむものでないといけない…それは忘れがたい衝撃だった。そもそも同じ庶民であっても、給料取りにとっては、恐慌(物価下落)は富裕化の条件にもなりえた。被害は人を平等に襲うわけではないどころか、ベクトルの向きさえ同じではないのである。
30年前に脳裏に刻まれた鮮やかな印象が、「経済危機の世界を(今度は)自らの眼で凝視してみたい」という気持ちに連なったのであった。
それから一年近くが経過した。
私の問題関心は依然として同じところにあるのだが、情けないことに、未だ「時代に対応するパラダイム・シフトの営為における自己の居場所」などとんと見出せていない。年頭所感は単なる大風呂敷でしかなかったのである。これで社会科学の研究者といっていてよいのかと、本当に落胆した(し続けている)。
ただ、素朴ながら自覚にのぼったことが二つあった。
一つは、「経済危機」について。
まず、「100年に一度の危機」という表現自体がミスリーディングではないかという思いが強くなった。供給・需要両カーブのズレに規定された長期波動が経済危機の起動力であった時代ならともかく、今回のそれは、想像を絶する「カネ余り」のなかで最先端の金融工学が生み出した(あっという間の)「夢」の破綻であった。その意味で、「経済循環」というこれまでのカテゴリー自体が崩壊し、「100年に一度の危機」が知的ゲームのいたずらとして再び「明日にでも」訪れうる、そんなリスキーな時代になったのではないか、と思えたのである。
そして、「危機においてこそ格差は開く」こともまた、その一端を実感できた気がする。ゴールデンウイークがあけたばかりの5月30日付「朝日新聞」は、すでに「秋の行楽」への殺到ぶりを伝えていた。いわく、「9月5連休ツアー殺到」「海外2.5倍国内2倍」「すでに予約がとりにくい状況」云々。中小企業の倒産が相次ぎ、貧困起因の自殺が急増し、職にありつけぬ若者があふれ、しかも加齢とともに一層の困難がのしかかりつつある一方で、華やかな宴につどう人々は例年にない熱気と興奮をみせつけている。ただし、「腐敗した財界人×無産者」の階級対立もしくは「都市×農村」の文明対立であった猪俣の時代とは異なり、今は「同じ庶民のなかの(庇護と要領の差に基づく)分断」という側面が強く、ゆえに社会の壊れ方ははるかに広く深い。
二つは、自らの「認識力」について。
「時代精神と向き合って生きていたい」とは私が大切にしてきた心構えであった。しかしそれは、「平時」にしか通用しない柔なものでしかなかった、と思い知った。「平時」には、多くの外部環境をひとまず与件とし自分の関心事だけに論点をしぼりうるが、「大危機」においてはこれらの与件自体が抜本的な変化を強いられてしまう。しかし、世界を構成するあらゆる要素が改変され再結合される激動を見据えるには、自身の視野も知性も感性もあまりに不足している、このことを痛感したのである。
仕事はじめで能天気に述べた「当事者たることへの期待」は数ヶ月にして反転し、「当事者であるがゆえの困難」を痛感することになってしまった。これまでも意識しないことではなかったが、今回は自身への失望が深かっただけに、よりシリアスな問題として再把握したのである。
それにしても本当に、「当事者でありながら未来に届く新たな眼差しを獲得できた」人たちは偉大である…かかる衝撃を通じて、研究史というものへの自身のスタンスも微修正された気がする。
二 不謹慎のそしりを免れないが、以下、世界恐慌にまつわる(?)ささやかなエピソードを付記させていただきたい。
数年前から古い洋画が格安のDVDで見られるようになった。たまたま映画の普及期と重なったためでもあろうが、主題としては掲げられていないにせよ、多くの作品のなかに20世紀世界恐慌下の人々が多彩に描かれていることに気づかされた(…映画における猪俣津南雄)。そんな思いにさせてくれた1本である「オーケストラの少女」について書いてみたい。
小学生の私が「戦前の洋画」に関心をもったのは、若い頃は無類の洋画好きだった父親の寝物語をとおしてである。父は幼少の頃両親をほぼ同時に亡くし、とある商家へ丁稚奉公に預けられた。商才皆無(どころか対人恐怖症)であった父の苦悶はそれ以降死ぬまで続くのだが、苦境のなかでわずかばかりの安らぎをもたらしてくれたのが「ハリウッド映画という非日常」であった。たくさんの映画話を聞いたが、もっとも心地よいイメージを残す1本が「オーケストラの少女」であった。記憶に残る父の言葉をつなぎ、大幅に圧縮すれば次のようである。
“この映画は、「乞食たちの楽団」が世界的指揮者(…当時オーケストラの魔術師とよばれていた)レオポルド・ストコフスキーを動かし、遂に彼の指揮による演奏を実現するに至る過程を描いた感動の音楽映画で、両者をとりもったのが「乞食音楽家たちのマスコット」ディアナ・ダービンだった。彼女の歌(…「乾杯の歌」)も見事だったが、圧巻は「ストコフスキー/フィラデルフィアS.O.によるハンガリー狂詩曲第2番」。見どころは、乞食楽団の無礼な要請にあきれ顔だったストコフスキーが、彼らの演奏を目前でみせられるうちに、「徐々に指・手・体が動きはじめ(…彼は指揮棒を使わない)、最後は全身をつかって指揮に打ち込んでいく」姿…これがフィナーレを飾る、感動的な音楽物語。”
こんなわけで、私にとって「ストコフスキー/ハンガリー狂詩曲第2番」は憧れの組み合わせとなり、私が小遣いをためて買った最も初期のLPの一枚となった。
全体を通して見たのは、やっと数年前のことである。ストコフスキーのイメージも含め、父の話を通じて子供の頃に抱いた印象とは食い違う点がままあり、その異同を確かめていくこと自体が結構楽しい遊びであったが、ここでは「20世紀世界恐慌(!)」に論点を限定する。
舞台は「大恐慌のアメリカ」だった…これが最初の「目から鱗」であった。乞食楽団と父がよんでいた人たちは、実は恐慌下で職を失った音楽家たちだった。当然ながら、映画の中では乞食楽団とはよばれず、正しく「失業者たちの楽団」と表現されていた。彼らが失業を余儀なくされたのは、経済恐慌がパトロン(企業家たち)の経済的余裕を奪い、楽団サポートを真っ先に切り捨てたからである。要するに、大恐慌下の音楽家たちの苦悩と生き様が描かれていたのであった。
もう一つ興味深かったのは、ストコフスキーが乞食楽団の指揮を決意するに至る経緯であった。確かに、宿泊先に押しかけて演奏を強行した彼らの熱意と腕前にうたれたことにストーリー上のポイントが置かれているが、「失業者楽団を指揮する」との誤報が「予想外の世論の好感」を生んだため、企業家たちがこのパトロン行為には(意外な)メリットがあることを知ったことこそが、演奏会を実現させた決定的理由であった。単なる「美しい物語」ではなく、背景にある「俗なソロバン勘定」にも正当な注意が払われているのである。
それにしてもここには、「怒りのブドウ」が示すアメリカとは全く異なる恐慌の姿が、奇抜なアイデアとほほえましいエピソードの中に生き生きと表現されていた。
この映画は日中戦争開始年(1937)に作成されたが、同年こそ日本中を軍国主義の熱狂が覆う転換点であった。父がたまの休みを待ちかねて当時評判の「オーケストラの少女」を観、ストコフスキー/フィラデルフィア/ダービンに感激したのは早くても37年、もしかすると翌38年(…正月休みは映画が楽しみだった、と言っていた)だったかもしれない。
いずれにしても、(たぶん.)戦時体制突入後の、しかも失意の奉公に出ていた若者(37年なら17歳である)の絶望的な日々が、ハリウッド映画の興奮によって支えられていたというのは、なかなか興味深い事実ではないかと思ったのである。
三 竜頭蛇尾そのものの巻頭言になった。
柄にもなく巨大すぎるテーマをたてたことが「敗北」の主因であるが、しかし「時代」とはいつでも巨大すぎるものなのであろうとも思う。
かつて、ある若い研究者から「構想をつめきれず考えあぐねる」という類の悩みをぶつけられ、反射的に「思索を継続することほど希望に満ちた営為はない」と応じたことがあった。しかし、冒頭のテーマに立ち返れば、同じ言葉を(今度はシリアスなトーンで)自分自身に突きつけねばならないようである。
そして多分、大なり小なり同様の悩みの中にあると思われる院生のみなさんには、(再び希望のバージョンにもどした)同じメッセージを、心からの共感と激励とともに贈りたいと思う。
◆研究紹介◆ 滋賀県における牛肥育の成立過程
―戦前期、役肉兼用時代の肥育論理―
野間万里子
はじめに
「肉食はけがれるものとおぼへまして、とんと用ひずにをりましたが、御時世につれまして、此味をおぼへましたら,わすれませぬ。」仮名垣魯文『安愚楽鍋』(1871-1872年)の登場人物の言葉である。肉食が、薬食の名目の下許されるものからおおっぴらに楽しむことができるものへと変化した、文明開化期の牛鍋ブームの様子をよく表している。この牛鍋ブームを可能にしたのは、明治初頭すでに主に農用として存在した100万頭以上の牛であった。
その後、肉食が拡大・深化するとともに、農牛の飼養状況も変化を迫られることになる。しかし、戦前・役肉兼用期の牛飼養については、これまで充分な研究がなされてこなかった。本稿では、すでに明治中頃から副収入目当ての牛肥育が始められ、近江牛・江州牛の名で高い評価を受けた牛の供給地である滋賀県を事例に、役肉兼用期の牛肥育の実態と論理と明らかにしようとするものである。
肥育の技術
役肉兼用時代の肥育において重要になるのが、肥育前の肉付である。素牛は、その肉付のよいものから悪いものまで、「平肉・中肉・下肉」に分けられる。肥育期間はそれぞれ100日、150日、1年と異なっていた。単に期間の長短だけではなく、肥育の度合いも異なっており、平肉は濃厚飼料(大麦,米糠)たっぷりで仕上げられ売出価格も高く、下肉は粗飼料の割合が大きく全体の量も少なく売出価格が低かった。もっとも肥育期間が短い平肉が最上位の肉質となる理由は次のとおりである。肉付のよい牛にはその牛の生活を維持するための飼料とより太らせる(脂肪をつけさせる)ための飼料が必要であり、痩牛には生活維持のための飼料,肉付を戻すための飼料、太らせるための飼料が必要となる。牛が食べられる量には限りがあり、痩牛はまず肉付を戻しそれから脂肪をつけなければならないため、長い期間が必要になる。痩せ牛を長期間肥育する際のコストを考えると,肉質向上までは望めず肉量増加が目標となる。
このように肥育開始前の肉付きによって飼い分け、使役と肥育とを関連させることで、役牛時代の飼養状況が肉牛としての将来を決めるようになるため、使役農家の飼養状況まで変化を求められることになる。とはいえ、使役を極力控えてよい餌をやるのが望ましいということではない。使役期間を経て肥育にまわる牛は5-10歳で、使役によって十分筋肉の発達したものが望まれており,使役期間中に筋肉が蓄えられた段階になってはじめて,肥育を施すべきとされるのである.これには,5歳未満は生育のための栄養量も必要とされるため肥育には効率が悪いと考えられていたことがある。種類としては、純粋和種であることが求められたが、それ以上の産地や系統など遺伝的資質については触れられない。
飼料は米糠、大麦、麦糠といった濃厚飼料に軟らかく煮た青草や藁、豆莢などを加えたものを1日3-5回に分けて給与した。肥育の段階にあわせて、牛の状態を見ながら飼料を調整することも必要で、非常にきめ細やかで手間のかかるものだったと知れる。
肥育目標と販路
滋賀県における肥育は、脂肪の入ったより軟らかい肉質を実現することを目指した。1910年代半ばには、筋肉内に脂肪交雑を入れるためには体表面からも分るような「脂肪瘤」ができることが必要と考えられており、「脂肪瘤」こそがよく肥育された証拠とされていた。しかし、1920年代後半になると、「脂肪瘤」になるような脂肪の付け方は減点対象となり、瘤を作らずに脂肪を筋肉内に交雑させることが求められるようになった。ここに一貫して見られるのは脂の入った肉への嗜好である。これは、近代日本において肉食が、油を多用する西洋料理でもなく硬い肉をことこと軟らかくする煮込でもなく、まずは牛鍋として受容されたという消費形態と切り離して考えることはできないだろう。
滋賀県において肥育を施された牛の多くは、質・量ともに肉食の中心地であった東京へと送られた。滋賀県と東京との結びつきは、早くも1869年、東海道を歩いて生牛を移出したときに始まる。その後も、四日市からの汽船輸送、近江八幡からの鉄道輸送と交通が開けるにつれ東京へ送られる牛の数は増加し、明治中期には年間約6000頭が東京へ向った。
1910年代後半から1930年代半ばには、移出される牛の約半数が東京へと向ったが、蒲生郡からの移出牛はその9割以上が東京行きであった。蒲生郡は米麦二毛作地帯であり、その豊富な飼料に支えられて滋賀県最大・先進の牛肥育地であった。つまり、もっとも高度に肥育された牛が東京に送られていたと考えることができる。
明治末から昭和初期にかけて、いくつか肥育牛飼養の収支調査や収支モデル作成が行われている。耕作使用料、厩肥見積価格、敷藁料など計算に入れる項目が異なるため、調査・モデルによって収支は大きく違う。しかしいずれにしても確実に利益が出ることが見込まれており、購入価格・飼育料・敷藁代とさらに牛の交換時には家畜商に追金を支払ってまで、厩肥・耕作使用のために牛を飼っていたものが、肥育導入によって収入を期待できるものになっていることが分る。
とはいえその肥育過程は労働集約的かつ資本集約的にならざるをえず、このような高品質の肉を買い支える人々が層をなして存在していた東京との結びつきを抜きには成立しなかったのである。
おわりに
滋賀県では、明治末にはすでに意識的に肥育が行われ、肥育技術の改良も行われていた。そこでは使役段階に、骨格・筋肉の発達、成熟するための期間といったいわば肥育の準備期間ともいうべき積極的な意味合いが付与されていた。そして、素牛の選択と飼い分け(平肉・中肉・下肉)によって、使役と肥育とを連絡させていた。
肥育段階では、飼料の調理法、給与法などきめ細かな飼養管理が必要となるため、多頭飼養は難しく、1戸1頭飼養という従来の農業との結びつきの中での牛飼養の延長にあった。また、収支の面からも、飼料の購入部分が増える一方で、厩肥・耕作の必要量には限度があり、多頭飼養は有利ではなかった。
このように、役肉牛としての一生を前提に、肥育技術が発展し、脂肪交雑を実現できるようになったのである。一貫して続く近江牛への高評価は、この脂肪瘤から脂肪交雑へというより脂肪質な肉を目指す肥育技術の進展によって支えられたのである。
戦前期において牛は農耕用として存在したため、肥育は特例的な位置にあったと言えるが、1950年代半ば以降耕耘機が普及し、牛が役肉兼用から肉牛専門になると、より脂肪質で軟らかな肉をめざす肥育は普遍的なものになっていく。肥育の先進地である滋賀県での牛肥育の形成過程は、現在まで続く和牛への高評価の前史として理解できるのである。
★Contentsへ
◆修士論文紹介◆ 近世紀伊における地主の形成過程と経営動向
―伊都郡赤塚村田中家を事例として―
池本裕行
1.先行研究の整理と課題
近世の畿内における地主制の進展や村落状況についての先行研究は、最近も渡辺尚志編『畿内の豪農経営と地域社会』(思文閣出版、2008年)が出版されるなど数多くあります。それらにおいて畿内の地主制は天保期(1830〜1843)を契機として進展し、その要因は生産力の上昇であったと説明されてきました。しかし、それらのほとんどは摂河泉の地主を取り上げて分析したもので場所を紀州に限定すると研究蓄積は非常に少なくなり、また地主制の進展の要因として土地の帳簿上の面積と実際の面積のズレである縄延びを取り扱ったものは少ないというのが現状です。次に、農村の村落状況に関する先行研究についていうと紀ノ川流域だけに限っても幾つか見出せますが、どれも一時点の村落状況を分析したもので、通時的に分析したものはほとんどありません。
そこで、修士論文では紀ノ川上流域に位置する伊都郡赤塚村の田中家を事例として、近世の紀ノ川上流域における地主制の形成過程や地主的土地集積の進展、畿内で地主制形成の重要な起点とされる天保期(1830〜1843)の地主経営を、地域における小作慣行と関係づけて明らかにすることを課題としました。史料は田中家に残されている古文書を主に使用し、他に文献資料として『橋本市史』や『和歌山県史』を使いました。
2.研究結果
(1)紀ノ川上流域の農村の村落状況
赤塚村は石高351.078石、面積24町3反7畝6歩の村で、耕地のうち約75%を田方が占め、新田開発も近世を通じてほとんど行われないなど生産条件の点では赤塚村の属する上組の典型的な村でした。村の人口は元文4年(1739)から天明の飢饉のある18世紀後半にかけて減少を続け、その後文化・文政期(1804〜1829)に回復しますが、天保期(1830〜1843)には飢饉の影響により再び減少しました。農民層分解については、18世紀中頃である寛延2年(1749)には石高は3家に集中し、そのいずれもが40石以上を所持していました。しかし、その後寛政2年(1790)には10〜15石層への集中傾向が見られ、文政期(1818〜1829)には10〜20石層への持高集中が顕著になりました。天保期(1830〜1843)には10〜20石層の全体に占める割合は大きく変わらないものの、10〜15石層の割合が増加しました。更に、寛延2年(1749)以降村地は常に存在し続け、なくなることはありませんでした。赤塚村の階層構成は18世紀後半の農村荒廃期に大きく動き、文政2年(1819)以降は大きな変化がなかったことになります。この点は先行研究で分析されている紀ノ川下流域農村とは大きく異なります。この赤塚村があった紀ノ川上流域の諸村は紀ノ川下流域の農村とは異なるタイプの農村であったと考えられ、その違いは商品経済の展開の度合いによってもたらされたと思われます。
(2)地主的土地集積の進展
以上のような村落状況の下で、地主であった田中家はいつ土地を集積したのでしょうか。まず田中家の土地集積のピークですが、それは安永4年(1775)になります。この時点で田中家は、実面積で約19町、検地帳石高で約200石の土地を持つに至りました。検地帳石高に対する貢租率は全所持地平均で73%となりますが、このような状況下で作徳米を確保できたのは縄延び地の存在が大きかったと考えられます。そして、この土地集積は18世紀中頃に進展しました。この時期は農村荒廃期に当たると共に、田中家では三世九右衛門が上組物書役に就任(延享元年(1744))した時期に当たり、田中家の土地集積の背景にはこれらの点があったと考えられます。また、土地の集積に際しては採算性が考慮され(田中家が本格的に土地集積を始める時期には銀1貫に対して作徳米1.7石)、その集積した土地の縄延びは隣村恋野村では本田畑80%新田畑40%と赤塚村本田畑20%を大きく上回っていました。
(3)天保期(1830〜1843)の田中家の経営動向
では畿内では重要な画期とされる天保期(1830〜1843)に田中家はどのような経営状態にあったのでしょうか。まず自作地部門については、この時期の田中家は約1町5反、全所持地の約23%を手作りし、残りを小作に出していました。自作地で生産された米は小作米とあわせて橋本の商人や近在の村々に販売され、この米の販売は田中家に大きな収入をもたらしました。次に小作地部門ですが、この時期の田中家の小作地は主に赤塚村と恋野村にありました。小作料の不納率は最高で20%で、ほとんどの年では10%を切っていました。最後の貸付金部門は紀ノ川以南の7ヵ村を中心に展開し、その性格は生活補助的なものが多くを占めていました。同部門においては天保5年(1834)が重要で、この年を境として返済額より貸付額が多くなりました。
経営全体で見ると小作地経営、特に恋野における小作地が非常に重要であり、例え貸付金の回収が鈍くなっても米価の高騰によってそれは補填されました。つまり、田中家の天保期(1830〜1843)の経営は小作地部門を中心に安定していたと言えるわけですが、この時期の特徴は米の販売などによって得た資金が土地の集積に向かうことはなかった点です。
(4)田中家における小作慣行
田中家の地主的土地集積において重要な役割を果たしたと考えられるのがこの地域に成立していた小作慣行です。この慣行は田中家に限らず恐らく周辺地域においても成立していたと思われますが、その特徴は小作料が「人植」と表現される実際の面積に従って決定されるということです。この1人植当たりの小作料水準の成立によって形式的には地域の全ての田畑に小作料を設定することが可能となり、全ての田畑において地主の作徳を計算することが出来るようになりました。この小作慣行の成立が先に見た農村荒廃、役職就任に次ぐ3つ目の田中家の土地集積の背景と考えられます。紀州では貢租率が高く地主は縄延び地がなければ作徳を確保できなかったのですが、これは地域において地主の集積の対象となる田畑が限られることにつながりました。天保期(1830〜1843)に田中家の土地集積が進まなかったのは、作徳を確保できるような地主的土地集積の対象となる田畑がこの時期にはもうほとんど残っていなかったためと考えられます。つまり、この時期までに縄延びの多い土地は田中家を始めとする地主によって集積されてしまっていたと思われます。
3.今後の課題
修士論文では地主制進展の背景として小作慣行、農村荒廃、役職就任の3つを指摘しました。これらに関する先行研究は多くありますが、対象とする地域に偏りがあります。そこで、今後は紀ノ川流域においてこれらの点の実態を具体的に明らかにし、その上でこれらと地主制進展との関係を考察したいと考えています。今後も多くの方のご批判を仰ぎながら、研究を続けていきたいと思います。
◆調査報告◆
沖縄から旧南洋群島へ移民した人々への聞き取りを重ねて
森 亜紀子
今年の夏も、旧南洋群島で暮らした経験のある方々にお話を伺うため、約1カ月間沖縄に滞在しました。今回の調査の目的は、2つありました。
1つめは、これまでの調査の中で、まだ1度しかお話を聞けていない方を中心に、追加調査を行うことです。2度、3度と回を重ねるうちに、1度目には話さなかったり、思い出さなかった経験や思い、情景の細部をお話してくださることがある。話者の心に焼きついた世界に、私の理解が追いつき、気持ちが寄り添った時、世界がぱっと広がり、深まることがある。今回の追加調査でも、何度もそのような経験をし、充実した調査を行うことができました。
2つめは、今年の5月下旬に参加した南洋群島慰霊墓参団で出会った方々にお話を伺うことでした。南洋群島慰霊墓参団とは、アジア太平洋戦争時に、サイパン島とテニアン島の地上戦で亡くなった沖縄出身者らを弔うための、遺族や関係者の集いです。参加者の多くは70代、80代であり、高齢化が進んでいるため、公式な訪問と慰霊祭の開催は、40回目の今年で最後とされました。今回の参加者は、約300人。子供に自分の育った場所を見せておきたいと親子で参加した人。祖父や親、兄弟姉妹が亡くなった場所を探しだし、お祈りをする人。「水を飲みたい」と言って死んでいった家族に、沖縄から持参した水を供える人。それぞれの人が、それぞれの想いを胸に参加していました。
ここでは、墓参団で出会い、印象深かったおふたりのお話を紹介したいと思います。
Aさん(男性)とは、サイパン島北端の慰霊祭会場から、バスでホテルへ戻る際、隣の席になったことがきっかけで、お話を伺うことになりました。慰霊祭には、もう10回くらい、多くはひとりで参加してきたそうです。バスでお話した際には、父親の下で人夫として働いていた人、戦前に病気で亡くなった弟、キャンプに収容された後に亡くなった妹を拝むために来ているとのことでした。親や兄弟姉妹以外にも、人夫だった人を拝むという人は珍しいように思ったので、後で聞いてみると、その人夫の人はAさんの従兄弟に当たる人であり、かつ同年代だったため、複雑な思いがあったことが分かりました。
Aさんの父親は、南洋興発株式会社という製糖会社から7町歩の土地を借りて、その土地で甘蔗を栽培する「本小作」でした。南洋興発の「本小作」は、5町歩を借り受けることが多かったので、7町歩というのは、平均よりも大きな面積です。父親は、自分の弟達を沖縄から呼び寄せて人夫として働かせました。そして、弟たちが新たな仕事を見つけたり、沖縄に帰ると、代わりにAさんと同年代の従兄を呼び寄せて人夫として働かせました。しかし一方で、Aさんにはより良い生活をさせようと、サイパン島の実業学校に通わせます。実業学校を出ると、南洋興発の下で小作や人夫らに農業指導を行う現場監督になれたり、東南アジアに進出する日系企業の下で働くことができたりと、より上の階層へと昇る道が開かれました。
同年代なのに、人夫として厳しい労働に従事させられた従兄と、そんな従兄の労働のお陰もあり、将来のために高い学費を払ってもらいながら教育を受けることができたAさん―。2人は、それが原因でよく喧嘩をしたといいます。その後、従兄はサイパン島北端の飛行場建設に動員され、帰って来ませんでした。Aさんは、大人になってから、従兄の悔しい気持ちや言葉の意味が胸に沁みるように分かるようになったと言います。そして、今でも、「あんなこともあったなぁ、気の毒だったなぁ…」と、その人とのやりとりを思い出すそうです。
Bさん(男性)とは、サイパン島のホテルで開かれた、現地の人達との交流会に同席したことがきっかけでお話を伺うことになりました。Bさんは、地上戦当時(1944年)、まだ10歳にしかならず、「自分たちがどこをどう逃げたのか分からない、その前に暮らしていた場所もあまり記憶に残っていない、先輩達のように覚えていたなら、家族を案内できるのだけど。」と一人で参加していました。しかし、それでもBさんには、墓参団に参加せねばならない強い動機があるようでした。当時を懐かしむ人々や、現地の人による踊りが披露される賑やかな雰囲気の中では、聞くことがはばかられたため、沖縄でお話を聞くことにしました。
「置いて逃げた−。」
一緒に逃げていた兄と、途中ではぐれてしまったことを、Bさんはあえてそう言いました。その前にすでに、並んで寝ていた両親と兄2人を空襲で亡くしていました。その後、上の兄夫婦と、真ん中の兄、Bさんの4人で逃げることに。途中で内臓が飛び出した朝鮮人の子供が「あいごーあいごー」と泣くのも見捨て、みんな「我先に」と逃げて行かねばならない状況でした。そんな中、上の兄が小さい小屋を見つけ、そこへ向って走り出し、兄の妻もそれに続きました。Bさんは、真ん中の兄がついてこないので「どうしようか」と迷ったけれど、上の兄夫婦について行くのに必死で、探しには戻りませんでした。その後、真ん中の兄がどうやって死んだのか、「日本兵にやられたのか、空襲にやられたのか」分かりません。
戦後沖縄に戻っても、上の兄は真ん中の兄を「置いて逃げた」ことを、沖縄の親族に話しませんでした。しかしBさんは「しょうがなかった」、と、「置いて逃げた」、の間を揺れる気持ちを見つめ続けました。そして、最近になりようやく、字誌にその「事実」を書き、告白することができた、やっと気持の整理がついた、といいます。
聞き取りを始めた頃、オーラルヒストリーというのは、「その話者の」経験や思いを聞き取ることだと思っていました。しかし、サイパンやテニアンで地上戦を生きのびた人、他の島でも空襲や引き揚げ船の沈没で大切な人を亡くした人など、過酷な経験をした人は、自分の苦労よりも、むしろ生きられなかった人のことを語ります。
まるでその人を生き返らせるかのように、しぐさ、日常のひとコマ、最後にかわした言葉が再現されていくのです。「自分が今話さなければ、あの人の存在もなかったことになるから」と、その人の存在を託すように話してくれる人もいます。
話者にとっての経験の重みのようなものが、まるで私もその場面にいたかのように伝わってくる瞬間がある。この語りの力に引き込まれるようにして、3年間沖縄を訪れてきました。この間に、また会えると思っていた人が、亡くなったという知らせを受けることもありました。今という時間の大切さを、身にしみて感じています。来年度は、聞き取りにさらに力を注ぐため、1年間沖縄に滞在する予定です。
★編集後記
農史通信第6号をお送りします。前号から1年半も空いてしまいました。今回は巻頭言のほか、研究報告2本、調査報告と近況報告を各1本を掲載しています。野間さんの研究報告は、明治期の東京市場と滋賀県の牛肥育の関わりを論じたものですが、とくに牛使役を組み込む形で近江牛の牛肥育技術が形成されていった点が、新たな発見になっています。池本さんは、農史研究室では久々の近世農業史の若手の研究者です。卒論では近世紀州の山村経済を扱いましたが、修士論文では同じ紀州でも水田地帯の地主制形成を扱いました。近世畿内についても縄延び地の観点から地主の形成を論じることができることを示したことが論文の要点となっています。
森さんは、聞き取りを基礎に戦間期・戦時期の南洋群島への沖縄移民の研究を続けていますが、インフォーマントの数はとうとう100人をこえたということです。もちろん、この報告にみるように、人数だけが問題ではなく、一人一人の重い経験をいかに受けとめるかが重要です。その一端を今回の報告で読み取っていただけたらと思います。安岡さんは、学位論文の完成にむけて本格的始動に入ったといころですが、そのことが近況報告によくでています。農史研究室の若い人々の知的営みの一端を感じ取っていただけたらと思います。
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野田さんの巻頭言で映画の話が出てきたので、この夏にみた二本のドキュメンタリー映画について、ちょっと気楽な感じで書いてみます。一つは田代陽子監督「空想の森」、もう一つが想田和弘監督「精神」です。たまたま同じ映画館(京都シネマ)で立て続けに鑑賞することができました。
「空想の森」は、北海道新得町を舞台とした「農のある暮らし」をテーマに掲げる映画で、これは職業柄、やはりみておかなければという思いに駆られてみたものです。いろいろな人々が登場するのですが、中心は「新得共働学舎」という農業法人に暮らす若い夫婦と、1970年代に確か京都府綾部市から入植して有機農業を営む団塊世代の夫婦です。この二組の暮らしぶりやインタビューを軸に、村の映画祭が、この映画の物語化を演出するという作りになっています。二組の夫婦のうち、綾部出身の夫婦の方は、関西弁を喋ることもあり私にはちょっとリアルすぎました。精神的にも成熟している人々で、団塊世代の充実人生がよく伝わってきました。興味関心が惹かれたのは、やはり若者の夫婦の方です。どちらも大阪と神奈川という都会出身。特段の過去が語られるわけではないのですが、とても優しくて、その分傷つきやすい人々です。
映画の中でとくに印象に残ったのは、若い夫が「貯金がある生活よりも、お金がなくても薪や野菜がいっぱいある暮らしがしたい」と、はにかんだ調子で語った点です。「食べ物に溢れた暮らし」とはどういう欲望の現れなのか。このことばを聞いたとき、若いときに読んだ安丸良夫『日本の近代化と民衆思想史』を反射的に思い起こしました。この本は近代日本民衆の「通俗道徳」を説いたことでつとに有名な本ですが、禁欲的な通俗道徳論とは異なる章で、食という方ではないのですが、「豊かな農業生産力」というような言い方で幕末維新期の「小生産者の夢」が語られていたと記憶しています(確かめていないので記憶違いかもしれません)。もちろん、貧困と結びついて「豊かな食」の夢が語られる時代と、「豊かさ」にどこか倦んでいる社会であるがゆえに、「お金がなくても食べあうこと」が自己回復の夢として語られる時代とでは雲泥の差があります。じっさい、昨今の農業ブームも、都市の若い世代の精神がかつてのリアルな農民的伝統と切れことではじめて可能となったことは衆目一致することでしょう。とはいえ自己回復が食を媒介にして語られる点は、近代日本を通して反復されるある種の心的傾向であるようにも思われます。同じエコロジーでも、ドイツではどちらかといえば食よりは明らかに空間が志向されることを思うとき―具体的には森や農村景観への強いこだわりですが―、そうした考えをいっそう強くするのです。
「精神」の方は、今年一番のドキュメンタリー映画として評判になったのでご覧になった人もさぞかし多いと思います。岡山市のある精神科外来に通う人々へのインタビューを軸に構成されていますが、モザイクなしで患者自身が素顔を出して自らの経験を語ることで大きな話題になりました。語られる内容は、繰り返される自殺未遂はもとより、幼児虐待、離婚、売春などショッキングなものの連続で、鑑賞後のインパクトも半端ではありません。ですが、見慣れた都市の日常的な風景が背景におかれるためか、そうした生きることの重苦しさも、どうしても拭いきれない人間不信も、明らかに私の日常と地続きのところにあって、鑑賞者としての自分がそこにいる感じが強くありました。つまりはリアルなのです。これは「空想の森」が都市ではない「美しい農的世界」、まさに空想としての桃源郷を設定することではじめて希望が語られていることと対照的かなと思います。ちなみに「精神」では、中年の鬱っぽい男性患者の電話によるクレイマー的な行為が最後のシーンになっており、さらにこのエンディングの後につづく字幕において映画に登場した二名の方の自殺が暗示されています。
二つの映画は、舞台が正反対なので一見するとかなり違うもののようにみえるのですが、しかしよくよくみれば、「他者との交感」による自己回復への切実な欲望が横溢しているという点では同じテーマを扱っているようにみえます。問題は、「空想の森」における食や農による自己回復の夢が、桃源郷の物語ではなく、「精神」で描かれたこちらのリアルな世界の生き難さに、どこまで応えられるのかということでしょうか。「精神」には食も農もエコロジーも登場せず、息苦しさはもっぱら診療所の場で「ささやかに繋がりあうこと」で癒されるにとどまっています。「農業史」の言葉でこのテーマをどう切り開いていけばいいのかは全くわからないのですが、私の課題の一つとして、長く抱え込んでいきたいテーマかと思っています。いずれにしてもこの二本の映画、機会があれば是非ごらんになられることをおすすめします。
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もうひとつ、現実的な話題を。9月に韓国全州市の全北大学で「日中韓農業史学会国際大会」がありました。日本、韓国、中国の3カ国の輪番制で毎年開催され、今回で9回目を数える国際学会です。私自身は西欧農業史研究ということもありこれまで参加してこなかったのですが、昨年の南九州大学での開催に関与したことをきっかけに、今回で二回目の参加となりました。個人的には初めての韓国訪問で、それがとても楽しみでした。日本からは若手研究者を中心に16名が参加しました。
大会は到着日が晩餐会、翌日が全体会(基調報告)と分科会(個別報告)、三日目の午前中が分科会(個別報告)、午後がエクスカーションでした。今回の会議が盛大であったのは、基調報告において日中韓の3報告に加えてロシアとフランスの研究者による報告があったこと、地元テレビ局により大会初日の模様が報道されたこと、そしてなにより1000ページにも及ぶプロシーディングが惜しげなく配布されたことによく現れています。またプロシーディングの日本と中国の報告者の部分には、すべてハングルでの全文翻訳がつけられていました。
私のような西欧農業史研究であれば、個人的に年休をとって旅行しない限り、アジアの農業や農村に直接触れる機会はどうしても少なくなります。比較史の枠組みも、「日本と西洋」という固定的で古くさい二項対立図式に陥りがちになります。これを回避しようとすると「比較史」を語ること自体に慎重になり、あげくには沈黙してしまうことになります。その意味で、アジア農村に直接触れることができ、かつ日本ではなく「東アジア農業」の史的経験を基準とすることは、西欧農業史を考える上でも、迂遠ではありますが、とても有効なやり方と思います。私にとっては同じ外国でも、ヨーロッパと韓国の違いは、いろんな意味でとても興味深いものでした。
もっとも言葉の問題は深刻です。まず、一部の方を除けば、共通言語がもてません。農業史研究の場合、英語による報告ではどうしても中途半端な理解に陥るだけで、東アジアの学問的な対話には役立ちそうにありません。しかし、問題は、言語それ自体のレベルをこえ、学知の言葉の違いにまで達している点です。この点は、昨年、とくに中国の農業史研究者の方々との対話で強く感じるところでした。日本の農業史研究の場合、近現代の研究が中心で、分析対象とする期間も地域も主題も相対的に限定的で、その分、逆に実証的な密度を重視しますが、たとえば、中国の場合は個別報告のテーマは古代から現代までに及び、なかには一本の研究報告に数百年の歴史が内蔵されていることもあります。こうした場合、断片的なコミュニケーションはできても、いったいどのように議論をしたらいいのか、その切り口がなかなかつかめないということが生じるのです。
どういう形で同じ学問的関心を共有しあえるようになるか。これはかなりの難問です。同時に、このことを考えることは、結局は、農業史の学問的アイデンティティーをどういうものとして確立するかという問いにも関わってきそうです。今回の国際大会も、見た目は派手でも、実質的にはささやかな交流会がはじまったばかりにすぎません。地道な交流を通してアジア単位での農業史研究のアイデンティティーを作り出していけたらと思います。
(足立芳宏)
〒606-8502
京都大学農学研究科生物資源経済学専攻
比較農史学分野http://www.agri-history.kais.kyoto-u.ac.jp/ ★Contentsへ ★農史Topへ